レストハウス 広島市中区中島町 平和記念公園 2020年8月1日
元安橋の親柱(西詰下流側)向かいのレストハウス入口は一段30cmほどの上り下りが必要ですが、西国街道をはさんで原爆の子の像と正対する位置の入口には段差ありません。点字ブロック設置&やや勾配ありますが簡易電動車いすの走行に問題ありません。コロナ対策で両開き戸は開放されたままでした。
1階おみやげショップ。陳列棚の配置に手狭な印象は受けませんでした。観光案内カウンター前に手すり付きスロープ。のぼりきって左手にエレベーター。突き当りは多目的トイレです。「手すりが便座の両側にある(一方が跳ね上げ式)」「おむつ替えベッド」「オストメイト」完備です。多目的トイレは1階〜3階の各階にありますが、スペースにゆったり余裕があるのは1階です。
エレベーターで各階移動できます。展示室(地下1階・3階)とカフェ(2階)入室の経路に段差ありません。車いすユーザーのみなさんご安心ください。
平和記念公園(原爆ドーム〜平和記念資料館)まりちゃんが車いすで行く 2014年9月15日
「車いすの目線で平和公園を撮ろう!」まりちゃんはiPhoneを右手に持って車いすから撮影しました。原爆ドーム〜元安橋〜原爆の子の像〜原爆死没者慰霊碑〜平和資料館。ハイパーラプス(hyperlapse)というアプリを使いました。タイムラプス動画です。
コロナ対策で両開き戸は開放されたままでした
1階 おみやげショップ フロアに段差ありません
観光案内カウンター前のスロープをのぼって右手に地下室階段の展示。竣工時(昭和4年)から使用されていた地下室への階段だそうです。
1階 多目的トイレ前
「手すりが便座の両側にある(一方が跳ね上げ式)」「おむつ替えベッド」「オストメイト」完備です。多目的トイレは1階〜3階の各階にありますが、スペースにゆったり余裕があるのは1階です
地下1階 展示室 被爆当時の雰囲気を今に伝えています。リニューアル工事により床面はバリアフリー。車いすユーザーのみなさんご安心ください。
この地下室で被爆した野村英三さんの手記などが展示されています
2階 カフェの入口〜ホール 車いすの妨げになる段差ありません
3階 展示室 平和公園一帯かつての中島地区の歴史が展示されていました
「この世界の片隅に」そして「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」では昭和9年1月の中島本町の様子が丁寧に描かれています。江波からお使いにやって来た8歳のすずさんは、大正屋呉服店*1ショーウインドーの真鍮の手すりでひと休み。この大正屋呉服店こそが現在のレストハウスです。(スマホアプリ「舞台めぐり」で撮影しました 2016年8月12日)
この新聞は、原爆投下で発行できなかった一九四五年八月七日付の新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。被爆五十周年に、一日も早い核兵器廃絶を願って製作、発行しました。一九九五年八月六日 新聞労連・中国新聞労働組合 ヒロシマ新聞 題字下・広告枠
1階のショップで「ヒロシマ新聞」を買いました。今年創刊128年の中国新聞。昭和20年当時社屋は上流川町(現在の中区胡町・広島三越)。当時の様子は、県政担当記者だった大佐古一郎さんが日記をもとに上梓した「広島 昭和二十年(中公新書 1975年)」に詳しく書かれています。8月6日は当直明けで府中町の自宅(爆心地から直線距離およそ5km)に居て直接被爆(一次被爆)を免れた大佐古さんは、異変を感じてすぐに原爆投下直後の町へ。段原〜広島駅〜大須賀町〜饒津神社〜牛田〜戸坂〜工兵橋〜神田橋〜白島九軒町〜逓信局〜京口門〜西練兵場〜中国軍管区司令部〜八丁堀〜上流川町〜銀山町。司令部では松村秀逸参謀長から公式発表を口伝されたことが記されています。
「"中国軍管区司令部発表だな"。いま何時だ。時刻を入れてくれよ。"六日午前八時過ぎ敵B29二機は……" この二機は必要だ。"広島市を攻撃、落下傘により新型爆弾を投下……" そうだなあ、どの程度というべきか?」
「"広島市は全滅……" ですか」
「ばかなことをいうな。"市内に相当の被害を生じたり" だ」
大佐古一郎(1975.8)広島 昭和二十年 中央公論社 pp.185
8月7日の中国新聞が発行されていたらこの発表をもとに記事が書かれていたのかもしれません。
本三月十日零時過より二時四十分の間B29約百三十機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は二時三十五分其の他は八時までに鎮火せり
現在までに判明せる戦果次の如し
撃墜:十五機 損害を与へたるもの:約五十
東京大空襲について、この大本営発表を受けて翌日の朝日新聞一面見出しは「帝都市街を盲爆 約五十機に損害 十五機を撃墜す」。
「現在の視点で取材、編集したものです」わざわざ注釈したヒロシマ新聞に込められた思いがずっしり来ました。
NHK広島「被爆75年キャンペーン」の企画のひとつ「もし75年前にSNSがあったら? 1945ひろしまタイムライン」が開設したtwitterアカウント「一郎(ひろしまの新聞記者)@nhk_1945ichiro*2」は、みなさんお分かりの通り大佐古一郎さん。「広島 昭和二十年 」をもとに2020年3月26日から毎日ツイートしています。
(8月8日 追記)
被爆から35年後の1980年。大佐古一郎さんは中国新聞が発行できなかった昭和20年8月7日と8日の日付「廣島特報」を発行されたそうです。「中国軍管区司令部発表」も掲載されていますが、「現在の視点」でつくられた紙面のようです。
★スタッフからのお知らせ★
— 一郎@ひろしまタイムライン (@nhk_1945ichiro) 2020年8月7日
1945年8月7日、広島では新聞が発行されませんでした。
当時伝えられなかった原爆投下のニュースを、大佐古一郎さんは仲間と共に、35年後の1980年に、1945年8月7日付の新聞として独自に発行しました。
その紙面が残されています。#ひろしまタイムライン pic.twitter.com/7yKbQiVtNE
★スタッフからのお知らせ★
— 一郎@ひろしまタイムライン (@nhk_1945ichiro) 2020年8月8日
1945年8月8日、広島では新聞が発行されませんでした。
当時伝えられなかった原爆投下のニュースを、大佐古一郎さんは仲間と共に、35年後の1980年に、1945年8月8日付の新聞として独自に発行しました。
その紙面が残されています。#ひろしまタイムライン pic.twitter.com/oTkcCHQxEu